「こころ」の取り扱い方が宙ぶらりんになっている。
目に見えぬこの曖昧な「こころ」という存在。人はそれがあるものとして扱う。現に好きな人の前では胸がきゅんとなる、という。
「胸がきゅん」?まず「きゅん」。この一言で胸が締め付けられていることを表している。しかしなんで胸なのか?頭や腹ではなく必ず胸なのはなぜか。不思議で仕方がない。
脳から指令がでてからだに走る電気信号で胸にきゅんが起きるとして、なぜ脳は胸に指令を送るのか?
「こころ」というのは脳なのか?脳は記憶を蓄積しているから以前にあった感情を統計別に蓄積しているのかもしれない。発生した感情に適した感覚をからだに与えているのかもしれない。
だとしたら脳で感情が発生した訳ではない。脳の役割は司令塔であって、からだに起きた状況を知らせる。
感情は「意識できる感情」と「無意識の感情が」ある。それがある場所は「こころ」だろう。
さて、ここで最初に戻ってしまった。
「こころ」は確かに自分の中にあると誰もが思う。しかしからだの機能でそれを担う場所はない。
あるとすればそれは目に見えない「たましい」なのか。そもそも「たましい」なんてあるのか?と思う人々もいるだろう。
肉体は心臓と脳で生きることを決め、それぞれのからだの部位がそれぞれの仕事をして人がひとり生存している。だからそれぞれの部位が仕事を放棄したとしたら肉体の生存は難しくなる。
肉体とは全く別の働きをしているのが「こころ」。私たちにあるこの感情、意識はどこにあるのかと考えるとこのからだ全体に「たましい」が溢れている気分になってくる。しかし人にはみえないからどこにあるのか分からない。少なくともこの三次元空間にはない。となると「たましい」というのは肉眼では見えない違う次元に存在していながら私たちの肉体とも重なっているといえないだろうか?
こちらからは「たましい」側には行けないが、「たましい」側からこちらへは来られる(高い次元から低い次元を意識することはできるだろうし、形がないから障害がない。どこにでも行けるのではないだろうか)。そう考えると私たちは三次元と(隣り合わせの四次元に「たましいが」あるとすれば)四次元の重なるところに生きているのではないだろうか?特に眠っている間は四次元側に行きやすいのではないだろうか?
ごくたまに、他者の強い念が伝わるときがある。突然沸き起こる強い感情に巻き込まれる。それは「こころ」の動きが大きすぎて時空を超えてこちら側に伝わるのではないだろうか?
臨死体験をした人の話によくあるのが、知らない場所で、亡くなった知り合いと会った。
これは肉体から「たましい」(あるいは意識)が抜けている状態なのではないかと思う。
いつの間にか「こころ」から「たましい」に話が移ってしまった。
「こころ」=「たましい」なのかといえば私は「こころ」は「たましい」の一部で、全体ではないと思っている。「こころ」というのは私という自我と自己と呼ばれるものが一緒になったものであり、「たましい」とは過去も未来も含んだ人類の記憶ごと入っているものではないだろうか。
そして肉体を伴い生きることは「たましい」へ記憶をインプットしていく行為なのではないかと思う。
人は自分が体験していないことでも相手の気持を相手の立場になって考える力がある。それはたましいの記憶をこころが感じ取って反応するからなのではないだろうか?
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