Essay

 「扉を探して!」


 コンコン、コンコン。私はいつも人のこころの扉を叩く。

 でも時々、どこに扉があるか分らない人と会う。出会ってしまうと扉を探さずにはいられなくなる。

 先日そんな不思議な人と会ってしまった。

「ミスター・ミステリアス」・・・。その人を誰もがこんな風に言う。

交流する機会はなかなかめぐってこない。だから余計に気になってしまう。話したところで扉の場所は分らないという予感もする・・・。

 その人と何年か越しに仕事をともにした友人と話す。

 友人にとっても、その人はどこか不思議な人らしい。

「なんか、アイツには弱いんだよ」

 そんなこと言われたら、私はますます気になってしまう。そこにいないその人を思い描いてしまう!

「それっていったいどういう意味?」

 でもそれを説明してはくれない。言葉にならない何かがその人にはあるらしい。

 私はと言えば、相変わらずソワソワとする。ミステリアスなその人がそこにいるというのにどうやって扉を探していいのかもわからない。ただただ、その前に立ち尽くすだけだ。

 本人は極力余計なことは話さない。いつも笑顔が印象的だが、言葉からその人の本質を知るのは難しい。だとするとその態度から推測する他ないのだろうか。

 扉を探せないとすればいったいどこを叩いたらいいのだろう。はたして私はその人のこころのどこかに触れているのか。

 結局私に出来ることといえば、私の扉はここですと先に示して相手の警戒を解くことだ。こちらを知って貰って初めてちらりと扉の片鱗を見せて貰うことぐらいしか出来ないのではなかろうか。

 なぜそんなにも隠すのか、本人は無意識でしているのだろうか。

「見えてる部分しか面白いところはないのです。他は大したことないから隠しています」

そう言っている様に感じられるのだ。本当に?なぜ隠す様になったのだろうか?

ミステリーツアーに参加中の私はいつの日かコンコン、コンコンと叩ける扉を見つけることができるだろうか。

「よもつくに」

 

 死について想うことがある。その死とはうつせみの死だ。

自殺願望がある訳ではない。自殺願望とは、苦しい・辛い感情からの解放を願うことだ。私はただ、肉体から自由になるとどうなるのだろうと想像するのだ。

 先日職場の先輩との間にこんな会話があった。

「三泊四日の臨死体験ツアーがあったら参加してみたいです。身体がないときっと痛いとか疲れたとかないから、無理ってことがないのだと思う。この現世のものには触れたり、話したりできないけれど、それってどんな感じでしょうね。黄泉の国ってこの世とどう違うのでしょう。死んだ人との会話って生きている人との会話とどう違うんでしょう」

 私がそういうと、

「三拍四日も滞在したら、埋葬されちゃって帰るところもなくなっちゃうわよ」

 と笑われた。

現世で生きる生き辛さ、上手くいかなさ、その体験を通し、人である私達のやわらかな場所に感情が育まれる。例え一時的に消え入りたいほど辛い気持ちになったとしてもその体験は必ずやこころに何ものかを残す。

感情とは不思議なものだ。肉体があるからこそ味わうことができる。肉体から解放され精神だけになったなら、不自由さは感じられなくなり、時としてやっかいで不思議な「気持ち」からも解放されるだろう。

ところで、全てが思い通りになったなら、どこに感動が生まれるだろうか。喜びも、辛さもないところで生きるというのはどのようなものだろう。

人は生まれた瞬間から、死に向かって生きる。より良く生きれば、その先にはより良い死(やり尽くしたと思った時、思い残すことなどないと満足感が得られるのではないだろうか。それは人としての「私」の満足ではなく、「魂(=精神)」の満足なのではないだろうか)が待っている気がする。

こう考えると、結局死など何処にも無いのではないかと思えてくる。だからこそ「うつせみの死」と私は書いたのだ。

しかし、「死」について考える時、同時に「生」についても考える。さて、この生きている「私」とは誰なのか。なぜこの「私」がうつせみにいるのであろうか。どこから来てどこへと向かうのであろうか。いったい誰が「私」をこの場所へと向かわせたのであろうか。考えれば考えるほど不思議なのである。

私達の精神、誰かを想い、誰かの為に生きてきたその証とは誰かの中で受け継がれていく。だからこそ肉体が滅びようともその精神は受け継がれていく。「私」とはすなわち「考える精神」なのではないだろうか。だから「うつせみの死」があったとしても、そこに「精神の死」はないのだと思う。

そして、このうつせみに器を持って生きることは精神(=魂)が感情というものを体験するがためにやって来たのだと、私には思える。

よりよく生きる、それはすなわち、色々な感情を体験すること、その場から逃げず・・・逃げたとしてもまたその先も経験する、喜怒哀楽・・・これらを思い切り体験すること。それを肉体という器が朽ちる時まで体感し続ける、そのことではないだろうか。

「むっちゃん」


 小学一、二年生の頃の私は長いみつ編みを引っ張られて、いやとは言えずに泣いてしまう子供だった。

 当時のクラスメートでむつきちゃんと言う女の子がいた。むっちゃんにはお姉さんがいたせいか、少し同級生より大人びていた。

 むっちゃんのおしゃべりは鳥のさえずりの様に高く軽やかで心地よいものだった。

 少額三年生になる春、私の転校を機に文通が始まった。

 むっちゃんの名前はひらがなだ。しかし差出名を漢字で『睦月』と書いて来た事がある。あとになって「一月」の意味と知った時、彼女が一月生まれだったことを思い出し名前の由来を教えて貰った気がした。

 転向した三年生の夏休みにむっちゃんの家に遊びに行った。

 翌朝初めてみるオーブンレンジで焼かれた、むっちゃん手作りのチーズトーストを食べた。もう四十年も昔の話だ。その当時お母さんがフルタイムで働いている家庭は私の周囲になかった。

 両親が共働きの慌ただしい朝の風景や作り置きの昼食というものをその時私は初めて知った。

 お別れの日、むっちゃんのお母さんの運転で私の家まで送って貰ったが途中、書店に寄ってくれた。私達はマンガの書棚へと。

 だが私は少女マンガを読んだ事がなかった。

 どれを手にしてよいか分からないでいた私にむっちゃんは笑顔で

「ゆうちゃん、お揃いにしよう」

 と言ってくれたのだ。

 それはギャグマンガの王道、土田よしこの『わたしはしじみ』だった。

 マンガを読んで笑いころげたのは言うまでもないが、このマンガの事をなつかしく思い出すと私をちょっぴり大人にしてくれた優しいむっちゃんの笑顔とあの声がよみがえる。

「午後のひととき」


  昼食を外でとる機会があった。特段食べたいものもなかったので目についた店に入った。

  私から見て左前のテーブルに三人、男女の学生がいた。とても若いので高校生かと思ったが、話の内容から大学生だと分かった。

  突然耳に飛び込んできたのは、

「俺を生んだ親を恨んでる」

 という言葉だった。自分は生まれたくて生まれたのではない。だから勝手に自分を作った親は責任を持って自分の面倒をみないとならない、という。友人には、

「甘えじゃねぇか。なら、今すぐ死ね」

 と言われていたが、聞いていた私は嬉しくなってしまった。今もこんな青い人がいるんだなぁと思い・・・。

「おまえ、早く食えよ」

 先ほどの友人が急かしている。どうやら青い彼は、おしゃべりに夢中で食べ終わらないようだ。女の子もとうに食べ終わって、青い彼の話に笑っていた。

 元気な若者達は、ほどなく席を立った。これから歩いてどこかに行くという。何分かかるか、などと話している。おしゃべりな主人公は先ほど、

「俺は小学校では電車の運転手、中学校では物理学者、高校では漫画家、大学生になってからは小説家を目指してるんだ」

 と言っていた。

 良いなぁ・・・。まだなにものにもなっていないって。私には若さの自慢話に聞こえる。

 私も彼らにつられて席を立つ。

 少し前*「ワンダフルライフ」という映画を観た。

 死後七日間過ごす場所があり、そこでは人生の中でもっとも印象に残って場面を映画にして貰ったのを観るのだ。そうしてその時の気持ちだけ抱いてあの世へと旅立つという内容だ。

 死後集まった人のうち、自分が何を残してきたろうかと思いめぐらし、自らの一生をビデオで見直しながら場面を選ぼうとしている人がいた。

 一生を記憶してあれば、私も最後に見返してみたいものだと思いつつ、起きたことに変更はきかないのだとも思う。では、先に見ていたら違う一生になるのだろうか。

 今それを思い出しながら、紅葉の美しい公園のベンチに腰を下ろす。手にはテイクアウトしたコーヒーがある。ピクニックが出来る様なテーブルが点々と置いてある、素敵な公園だ。

 落ち葉を蹴散らし笑いころげる小学生の女の子達。サッカーボールを蹴りながらもつれ合う男の子達。少し離れた木陰からぽつんとそれを見つめる男の子。

 それぞれのキラキラとした未来がそこから立ち昇っている様だ。ひとり木陰にいた男の子の傍らに、少し背が高い男の子がやってきた。ゲーム機を挟んでふたりは座り込んだ。

 幸せなひととき。私にとっての「ワンダフルライフ」とはこんな日かもしれない。 

*「ワンダフルライフ」  監督:是枝裕和

  出演:ARATA/小田エリカ/寺島進

  公開:1999年4月17日

  死者役として一般の人々が多数登場している。「あなたの人生の中から大切な思い出をひとつだけ選んでください。いつを選びますか」というインタビューを行い、集めた五百人の想い出の中から選ばれた十人が本人として映画に登場している。


「娯楽室」


  目覚めると暗闇だった。

 人生最初の記憶である。人の気配のない真っ暗な部屋の中。闇の恐ろしさに幼い私は、大声で泣くしかなかった。

 かなり泣いたのだろう。母に抱きあげられ声をかけて貰えたことで安堵した覚えがある。うっすらと。そして、二歳半に満たない私は疲れ、寝てしまった。

 その日、若い両親は職場の人に手伝って貰い自分達で引っ越しをしたのだった。

 引っ越したそこは、公務員の男子独身寮だった。

 一階に管理人を兼ねた私達家族が住み、上の各階に若いお兄さんニ、三人が一緒に生活していた。同じ棟(とう)が横並びにふたつあり同じようなくらしをしていた。

 当時はコンビニエンスストアもなければ携帯電話もない。お兄さんが体調を崩し寝込めば、母が粥を作って持って行った。電話は取り次いでいた。

 引越しの時私がひとり目覚め、恐ろしさから大泣きした暗闇は向かいの空き部屋で「娯楽室」と呼ばれていた。

 元旦、帰省しないお兄さんと娯楽室で母達の作ったおせちを食べ、正月を祝った。

 お兄さんはみな、高校を卒業して地方から出てきて数年の、あどけなさも残る人だった。

 遊んでくれたお兄さんもいたし、叱られて泣いていた私に出くわし慰めてくれたお兄さんもいた。二度と還れないあの頃。

 ファンタジーの世界の住人であった私。私の成長と共に周囲も成長していった。

 記憶というものを知った時、きっと誰もが気づくのだ。人生という「時間」の中を「想い出」を紡ぎながら歩んでいることに。

 あの暗闇に目を向ける時、幼い記憶が蘇り、切なさと哀しさで、かすかに胸が痛むのです。

 

「金色の雨」

 

 物悲しくも美しい瞳は今日も大空を見上げていた。彼女は父親を愛し、尊敬もしていたが・・・。

彼女の父はアルゴス王アクリシオス、彼女の名はダナエと言った。

ダナエが生まれる時、王アクリシオスは世継ぎを望み神託を仰いだ。だが、男子が生まれないばかりか、ダナエの子に殺されるであろうとの予言がなされたのだった。

王は生まれたばかりの玉のような赤子を愛しんで殺すことが出来ず、代わりに誰も入ることの許されぬ分厚い青銅で出来た塔へ閉じ込めたのだった。

自らの運命を受け入れ全てを許す慈愛と憂いに満ちたダナエの美しさは、幽閉の身ながら城外に漏れ聞こえるようになっていた。

彼女と外界とをつなぐ唯一の小窓から大空を舞う鳥を眺め、ダナエは日々過ごしていた。「あのように翼を広げ好きな場所へ行けたとしたらどんな気持ちなのだろう」

そんなある日まどろむダナエの白い胸元に、ぽつり、ぽつりと金色の雨粒がふりかかった。雨粒は静かにゆっくりと、暖かく、ダナエの全身を濡らしていった。

濡れながらダナエは夢見心地だった。頬は薄紅色に上気し、その美しい口元にはうっとりと笑みが浮かんでいた。

夢の中でダナエは大鳥の背に乗り大空を飛んでいた。生まれてからこれ程自由でいたことがあったろうか。鳥が上昇し、下降し、ダナエの望む方向へと空を進むさまに恍惚としていた。

そうして目覚めた時には、夢の中の鳥と、もう一度空を飛びたいと願っていた。ダナエはもう、夢の中の鳥を愛し始めていたのだった。

望みは叶い、幾度となく金色の雨に打たれ、夢の鳥との逢瀬を繰り返した末、ダナエは後の英雄、ペルセウスを身ごもった。


「今年はまだ・・」


  今年はまだ、会っていないひとがいる・・。


  街というものは人と同じで、歳月とともにその表情を変えていく。今の場所に居をかまえて十五年。毎日通る駅前の景色も、変容してる。

   半額餃子で行列が出来た中華屋、仕事帰りに大福を買った和菓子屋、店先のバケツにどじょうがくるくる泳いでいた魚屋、地元商店が入った「第一デパート」は、もうない。今はすっかり更地にされ毎朝大型トラックが何台も入って行く。

「三十五階建ての建物が出来るのだって」。

 すれ違った人が話していた。その影響か一区画先にあった木造家屋も徐々に建て替えられている。街並みの変化は波の様に動いている。

 休日歩くと、和食器専門店と横に並ぶ年配女性向け衣料店も「閉店セール」の張り紙を長期にわたって貼り出している。

この木造二階建てもどうやら取り壊しが決まっているのだなぁと、少し寂しく眺めた。

 こんな風に高層化していく街の中、いつからか駅前をねぐらにする、ひとりの老婆がいた。彼女は夜には雨の日以外、決まってモノレールの高架下にいた。

 朝、前を通り過ぎる時は、寝床をひとまとめにキャスターケースに入れ、少し足が悪い為、からだを横に揺らすように足を引きずり、どこかへと消えていった。

 ちょこんと小さなおばあさんが夜の駅前にいるのは、不思議な感じだった。老婆はせっせとかぎ編み棒で小さなものを拵えて、それをキャスターケースにつるしていた。

 ある帰宅時ふと見ると、若いカップルが老婆と話していた。どうやらその毛糸作品を買おうとしているようだった。話している老婆は気さくで明るいらしく笑顔が印象的だった。

 老婆の事は主人も私の母も知っていた。不思議といるだけで周りに人が寄ってくるようで、私も何日か見かけないと、どこへ行ってしまったか、なぜだか気になった。


 先日、どんよりとした天気の中外出した。ふと車中で、主人に老婆の話をしてみた。

「今年はまだ、あのおばあさんにあってないよね、去年は見かけたのに。どこへいっちゃったんだろう」

 主人も

「さあ・・」

 といったきり、黙ってしまった。

 変容した街に嫌気がさし、新しい場所で今もせっせと編み物をしていてくれたら、と願ったまま、雨空を見つめるだけの私だった。

「アポロン」

 

 その人を初めてみかけたのは今から十年近く前のことだ。勤め先にほど近いC社はフレックス制で、出勤時間がバラバラなのだった。当時私も出社が三十分遅かったので、C社の従業員に混じって歩いていた。

 私の通勤時間は長い。電車で全く座れない日もあり、車両も混んで、「痛勤」といっても過言ではない。私にとって一日のうち一番嫌な時間は、と問われれば朝の通勤時間と答える。

 だが、あの時の数年間は違った。

 夏の暑い日、会社はすぐ目の前だった。私は白い日傘をさしていた。すれ違いざまにこちらを覗く人と目があった。私が記憶する中でこれほど美しいと思った人はいない。ギリシャ神話のアポロンをもう少し大人にして、和風にしたらこんな感じではないかと思うような青年だった。その一瞬で私は彼を、その後ろ姿を記憶してしまった。

 それから数日たった日、いつもの様に電車に乗り込んだ。これから一時間の地獄を思い吊り革を掴もうと何気なく前の人をみた。相手も前に立った私を覗いた。その瞳の主は先日の彼だった。声には出さなかったがお互い驚いたのだと思う。相手の眉が一瞬動いた気がしたし、多分私も同じだったろう。まさか同じ駅から同じ経路を使って通勤していたとは・・。

 毎日が楽しくなった。アポロンは電車で座るため、必ず早く駅に着いて並んでいる。私も出来るだけ座ることを心がけ努力をした。努力はそれだけではない。通勤時の服装も気を使う様になった。私が彼を目で探していたからか、私たちは毎朝目を合わせた。

 どこに座ったらその姿を一番見ることができるだろうかと色々と試みたが向かい側に座っても電車は混んでくる。横の席では顔が見えないしその上、勇気がいる。当時私は電車の中ではずっと、読書をしていたのだが、それでも勇気が・・・。

 勇気を出して空いていた横の席に座った日。幸せな気分で本を開いていた私の耳に、彼の前に立つ若い女性の声が聞こえた。その人は十五分の乗換駅で降りて行ったが降車間際、アポロンに紙を渡した。私は黙って見ている事しか出来なかったが、若いその女性はこういったのだった。

「ご結婚なさっていますか?付き合っている方はいますか」

 その後、子供が三歳になった時点で私の出社時間は戻り、アポロンを見かけることはほぼなくなった。(私たちは職場は側なのに他の時間帯に出会うことは一度もなかったのだ。)それでもほぼと言うのは、一本遅い電車になってしまった時、次の電車に乗る為並ぶ彼を見かけたからだ。不思議とそんな時は目があった。

 その一瞬、私を覚えてくれているのだろうかと瞳で問う私だった。

「ニュートラル」 

 ここ数日、ひとつの事柄に気持ちが囚われている。

 きっかけは、メイ・サートンの『独り居の日記』の「自分が本当にしたいことに辿り着くまで」という言葉だった。

 私は日々「本当にしたいこと」など意識して過ごしたことはない。この言葉に出会った時、何か重要な気がして、それからずっと、もやもやと心が引きずられている。

 

 職場へ向かう電車の中で座席に腰をおろした。見ると、隣には髪をプラチナブロンドに染めた青年がいた。日本人でも似合うのだなぁと感心しているうちに電車が駅に着いた。いち早く青年は席を立ち私の前を歩く。素足に黒いローファーシューズで階段を一段抜かしで上っていく。私が上り始めた時には既に中段まで上がっていた。その姿の若いこと・・。

 こういう姿を見ていたら、なぜだろう、急に自分が今ここに生きているんだなぁという実感が湧いた。

 人にはそれぞれのペースがあり、それぞれに生活を営んでいる。私は私のペースで階段を上がる・・・。それがなんだかとても嬉しい。そして気がついた。

 生きるということは考えること。自分の心に浮かんだその時々の小さなきらめきを掬い上げ、自身に気づかせること。

 そのために、いつも心はニュートラルな状態でいたい。適度に敏感で錆びつかなく、でも時には鈍感であろう、余り感じ過ぎないように。ふと、そんな気持ちになる。

 そう思うと、この世界が素敵なものに感じられる。本当はいつもそう思っているはずなのに、意識していない。

 意識したとたん、泣きたいような切なさで目の前が曇ってしまう。これだから気持ちが過敏になりすぎるのには注意しないと・・。

 何をしたいのかだんだんと判った気分になってくる。それは具体的な事柄ではなく、自分に正直でいること。気づかない所で動いている気持ちを意識できるようにすること。

 たとえ、心の中が嵐の日も、その事ごとをきちんと受け留めることが出来ればいつか晴れ間が訪れる。

 私は弱いので、何かのせいにしたくなることもある。だが何かにこじつけていると心の底が歪みはじめる。苦しくなってしまう。

 本当は誰もが、自身の心の中をしっている。

 逃げだしてしまいたい時もある。凹んだっていいのだ。かっこ悪くったっていいのだ。ちょっと休憩したっていいのだ。

 そんな弱い自分も認めた上で、進む努力をすればいい。自分を見捨てず大切にする、そうして生きていく。それを幸せと呼ぶことは出来ないだろうか。

 だから心はいつもニュートラルに。

私の本当にしたいことってきっとそんなことなのだとふと、思った。


「驚かすためにあるもの」


年明け、福袋を何点か購入した。毎年同じ種類の福袋を同じ場所で購入する。いつも同じでは開けたときの驚きもないので、今年はうんと驚いてみようと思い、雑貨の福袋を一点購入してみた。

駅ビルの中に入っているその店はおとなの女性が好みそうな雑貨を中心にルームウェアなども置いてある。この店ならそれほどハズレもないだろうと思った。

自宅に戻って定番の福袋を開け、最後にワクワクしながら件の雑貨店の福袋を開けた。

開けてみると、どうしてあの店の福袋の中身がこれなんだろうか?と思う様な品々が飛び出す。数は多い。さすが雑貨だ。ごちゃごちゃと出てくる、出てくる・・・。

丁度妹が来ていたので、どうしたものか?と顔を見合わせる。次男も

「なんなんだよ、これ。きちんとまっすぐ立ってないだろう。何に使うんだよ!」

 彼が示したのは、アクセサリースタンド・・・らしい。確かに左に傾いている。それともこれはもとからその様に作られているオブジェなのだろうか?するとそのスタンドに福袋に入っていたネックレスを掛けた妹が暫くそれを見て、

「私、これ貰って行ってもいい?だんだん見ていたら良くなってきた」

 と言う。スタンドとネックレスの行き先が見つかって良かったと胸をなでおろした。次男は付いている値札を見るなり、

「こんなものが、本当にこの値段なのか?たけぇ(=高い)!」

 と驚く。他にも蛍光色のボンボンが付いたコースターやネックレスがある。しかし、外国製のこの品は誰をターゲットに売るつもりだったのだろう?じっと見ていた妹は、

「これってさ、フェアトレード商品なんじゃない?この店の品物って、値段高く設定してあるように感じるし、海外からのフェアトレードなら手作りだからこんな感じなのかもよ」

 と言う。なかなか説得力ある答えに感心しつつ福袋の値段と、実際に付いている値段の合計を対比してみると三倍の中身となっている。次に使えそうな代物をそこから出し値段の算出をしてみる。それでも倍近い金額になっている。さてこれが店に置いてあり実際の

値段で購入するものはあるだろうか?と考えてみると何一つ無かった。これには驚いた。驚くのには成功したが福袋の驚きはもっと違うかたちで実現したかった。

 さて、そうは言っても現在、玄関を開けるとバラの香りが漂う。福袋に入っていたフレグランスだ。一月から置いてあるので大分香りが無くなって来た。そろそろ終わりのようだ。初めてこれを玄関に置いた時は、主人と次男に不評であった。私の妹と長男は嫌いではない様子だ。私はと言えばどちらでもない。本来はゼラニウムなどの香りが好みだが、あればあったでバラも悪くない。

 モノにはなんでもエネルギーがある。*リーディングしていくとバラは愛情のエネルギーなのだが、愛情と言っても色々ある。バラの愛情はしっかりと覆い動けなくなるようなイメージがある。「ギュッと抱きしめた感じ」だろうか。欧米人が人前で愛情を確かめるのに似ている。

 思えば次男と主人はギュッと抱きしめるようなことは好まない。逆に長男や私の妹は好きである。自然と香りの好もそうなっているようで面白いものである

*ここに書いているリーデングとは、国際カウンセラー協会の笛野はすな氏の技法によるものだ。目を瞑り、残像が消えた後、心の中で質問したことに対してみえた映像を解釈する。解釈が自分の思い込みにならないよう、何度も消去法で聞き返すことで納得の行く答えが出る。俯瞰した状態で解釈することで腑に落とすことが生徒の私達には難しく、勉強して答え合わせをしている。

 「お菓子は百円まで」


 遠足は待ち遠しい行事だった。

 それは既に前日から始まっていて、持参する菓子を近所の駄菓子屋へ買いに行くことが遠足の一部だったからだ。


 駄菓子屋と言うより、パン屋か総菜屋と呼んでいいような店。コンビニエンスストアがまだない時代だった。

 その駄菓子屋のおばさんを相手に菓子代百円を握った私はあぁでもない、これでは値段が超えてしまうと悩みながら明日、三年生はどこに遠足に行くのだというような会話をしていた。

 

家族でない大人が自分の話を聞いてくれるのが嬉しかった。


母と買いものに行ってもおばさんは私でなく母に話しかける。必要なものを買ってきて欲しいとメモ書きを渡されれば、メモ書きを見せるだけで狭い店内から必要な商品をすぐ持ってきてくれる。私には

「お使い偉いわね」

 という常套句以外は言ってくれない。

 

 だけどその日だけは、おばさんは菓子を選ぶまでおしゃべりに付き合ってくれた。近所の友達も買いに来て、分けっこしようね、なんて言いながらお互い菓子を選ぶときはもう既に脳内では菓子のシェアは出来ている訳だ。


 この子とこの菓子で交換するから、こちらは買わないでいようと当てにして他のものを選ぶ。

 いかに沢山の菓子を買うか苦心する。算数の授業より必死に計算していたとみて過言ではない。多分百円までの組み合わせは完璧だったのではないだろうか。もし十円でも違っていたら組み合わせが変わってしまうではないか。


 菓子の中には、

一、 自分が絶対食べたいもの。

二、 自分も食べるが人に分けるもの。

三、 交換を中心にするもの。


三種類があった。

わらしべ長者よろしく大きく増えることを期待する菓子というものが存在して、これは遠足当日結局友達とかぶり交換対象から外されるのだった。遠足の菓子交換の儀式は市場の需要と供給を思わせる。

もちろん当時そんなこと考える小学生など私の周りにいなかったけれど・・・・・・・。


 話が大きくずれそうなので、戻そう。

 息子たちが小学生の頃、遠足の菓子を側のスーパーへ一緒に買いに行った。その際値段の制限が無いのにまず驚いた。

「えー、お菓子は百円までじゃないの?」

 と言えば、値段なんて決まってないよ、と不思議そうな顔をする。そして選ぶものをみて更に驚愕する。

「えー、そのお菓子一個でいいの?それだけじゃ人と分け合えないじゃない?」

 と言うと、なんで人と分け合わなくちゃならないの?沢山買ったって食べる時間なんて決まっていて食べきれないから一つで十分だ、と言う。


 思えば私は三姉妹の長女で、ひとつのものを妹たちと分け合うのが当たり前の幼少期だった。

 あの頃は兄弟(きょうだい)姉妹のいる人が多かっただろう。今は子供数が少ない家庭が多い。


 息子がふたりいる私は、菓子は同じものを二つ購入している。

 分けるということをそもそも子供にしていないことにこの言葉でハタと気がつく。人のものを欲しがるということもない。考えると欲しいものが手に入らない状態がない。


 子供との価値観の違いはそのまま今の世をあらわしている。共有すると言うことが少なくなっている。でもそれを進めているのはお菓子百円を知っている私たちなのだった。

「我が家の家事事情」


長男が大学生になったので、ちょっと母親業の手抜きを思いつく。息子たちの手前、

「これから数年して社会人となったら、今までみたいに家から通えるかも分からないのよ。ママの会社でも新入社員が来たけど、大阪で生まれ育って今回初めて東京で一人暮らしするって子もいるのだって。いきなり一人暮らししても自炊って大変なの。だからといって、しょっちゅうママがおかず作って送ってあげるなんてことは実際考えても無理だし、今から一人暮らしが苦にならないように、練習してみるのはいいことだと思うよ」

 そんな訳で、ひと月のうち何日間か日を決めて夕飯の支度をして貰うことにした。

 次男は幼い頃から台所に立ってくれるし、今も私の側で話している時、なんとなく促すと手伝ってくれるから、この度鍛えるのは長男の方。

 この人はどちらかと言えば、やって貰いたい人なので、

「マジで。俺自分で作った焼きそば、超マズイんだけど。水っぽくて、油っぽい。俺、焼きそばも作れない男なんだよ!」

 だから、次男に作って貰おうという魂胆がありありとみえるので、

「大丈夫。簡単なんだよ、慣れだから。何が心配なの?」

 と聞く。あくまでもダメ出しはしない。それをすると途端にうしろ向きになってしまう。次男の方は、いいよ。僕作っても、といってくれるが、それでは何もならない。次男の方は作るのはいいが、洗い物が嫌なので、そっちは長男に任せたい気持ちでいるのが手に取れる。長男はどちらも嫌なので、できれば先に苦労して後で楽をしたいと思っている。そこがチャンスで焼きそばの作り方のコツを伝授する。何事も人は成功体験から自信を持つ。

「嫌だよ、兄ちゃんの作る油っぽいマズイ焼きそばは。僕が作るよ!」

 次男が言うのを無視し、長男に促す。どうやら全体的に不安らしい。なので、

一、 油は大匙半強。二、麺は電子レンジで温めてほぐしておく。三、野菜と肉をよく炒めた後は火力を中火より少し弱めにし、麺を和える。四、その後更に火力を弱くし、焼きそばに付属のソース味のもとを混ぜ合わせる。

そうすれば麺も焦げ付かず初心者でも美味しい焼きそばが出来る。

 その他に何か不安はあるのかと問えば、肉の量はどのくらいだと聞く。

「お肉はほとんどの料理の時、ひとり百グラムくらいと覚えておけばいいと思うよ。とりあえず、明日の夜はそれで作ってみて」

 翌晩帰宅すると、長男がフライパンを握っていた。シメシメと内心ほくそ笑みながら、出来上がりを待つ。

 出来上がったの焼きそばは、水っぽくも油っぽくもない。完璧な出来に本人も大満足な様子。次男もケチがつけられず黙って食べている。私はシメタ!と思いながら、

「ほら、上手にできている。美味しいよ。簡単だったでしょう。これからまた同じように作ってね。次は何を作ろうかね。カレーにする?」

 とたたみかける。本人もまんざらでもない様子。こうして、少しずつレパートリーを増やして、私は家事時間を減らそうと思っている。

 私の成功体験としては、この前に洗濯物を干し取り込みたたむという事を息子らにやらせている。こうして少しずつ彼らにやって貰い、家事に費やしていた時間を自分の時間にあてるのはなんとも言えない快感である。



 今回テーマの「狡猾さ」を子供とのことで書こうと思うんです、と*「からだの声翻訳家®」の師匠、笛野はすな氏に話したところ、「からだの声翻訳家®」のなかで「狡猾」といえば、顔にニキビ跡が沢山ある人を指すという。さて、どういう意味かと言えば

 瞳は自分の魂を表し(「目はこころの窓」というし)、口は自分の気持ちを話すところになる。その間にニキビができるのは、こころと気持ちが違っているのでブツブツと文句が出る、噴火しているのだそうだ。顔は相手にそういう状態だと知らせている場所だから、違うことばかりいって噴火後が残った顔の人は、平気で違うことをいう習慣があるといっているのだ。こういう人は口が上手いのよ。そういう所から「狡猾」だ、という。

 そういえば、長男は今ニキビ面である。昔から自分がしないで、人にさせるように仕向けるのが上手い人だ。が、ある時それをこちらは見抜いているよ、告げる。以来、ことあるたびに、嘘ついてはダメ、誰も信用しなくなる、と教え込んでいる。思春期だけのニキビ面ならいいが、ニキビが跡になったら困るなぁと思ったのだった。

*「からだの声翻訳家®」 国際カウンセラー協会のレッスンのひとつ。こころとからだは繋がっていて、細胞のひとつひとつに担当する意味がある。からだの痛みや痒みは自分の考え方や行動が違っていると教えている、それを気がつかせるためにしていることだという考え方。