昨日は電子書籍出版のお話しと笛野親子の対談でした。
最初は電子書籍。
ちょうど帰りの電車でkindleで読まれている方が坐っていました。
やっぱりスマホよりあのくらい大きくないと見ずらいな、と思いました。
でもちょっと重いのかな?私の持参していた書籍とどっちが重いのかな?と目視で比較してみていました。
電子書籍がますます台頭してくるだろうということでした。
私は本屋でぶらぶらするのが好きです。
本屋さんが書くポップを読むということも余りなく、だいたい気に入ったものが並んでいる書架のあたりにふらふらと行き、その辺りをゴソゴソとみて本と出会うということをしています。だから本屋さんでの立ち読みが好きです。
人との出会いもそうですが、本との出会いも導かれている気がします。
勿論中には、何かや誰かが語っている本だから読んでみようと思うことがあります。
インターネットを介して書籍を買うこともあります。
それは、読んでみたい作家の本でも、有名だったり、流行でない作家の本は本屋さんに置いていない時があります。
絶版でもなく、本屋にない時はインターネットでの取り寄せが便利だからです。
そういう意味でインターネットの発達は嬉しいものだと思っています。
それの延長で、電子書籍が図書館で取り入れられたら、電子書籍ももっと親しめるようになるかもしれない。
その辺が少しづつ浸透していく予感がする(既に取り組みがなされている市や学校があるという)話でした。
そして面白かったなと思ったのは、出版するってどんなことなのか?という質問でした。
誰かに伝えたいメッセージを文字でプレゼントする。
いいですね。本当に逆に読者は受け取りたくて書架を徘徊する訳です。
私の読みたいと思う本は今は電子書籍のかたちではうまく読めない、いや、私がそう思っているだけかもしれない。
これからは、電子書籍も視野に入れて選ぼうと思いました。
次のはすな先生とお嬢さんの親子対談は、高校を卒業するために取得しないとならない単位を落とすというところを食い止めようとする母親と、その状況でも学校に行きたくない娘の話という形でした。
先生はここに至るより以前に、子供からの親に対してのシグナルが出ていたはずだと解析していました。
こうして親困らせると言うのは、親に対して注目して欲しい、甘えたかったという表われがこの形で出たのだといいます。
仕事が忙しくて、食事にしてもおろぬいていたといいます。
私も惣菜を買ってきて食べるということをしますからそうなのだろうか?と思ったりしましたが、遅くなっても一緒に必ず食べたり、なんらかの付け合わせ等は自分で作って出しています。
手抜きであっても、子供たちが待っているので遅くなってもごはんは私が出しています。
買ってきて食べてくれたり、自分でつくってくれたらどんなにいいかと思いますが、こんなことくらいしか母らしいことができないからそうしてます。
これはいつも家にいない母親だからこそそうするのだと思います。
先生の後悔は、二度目のご主人がお子さんに暴力を奮うのをみて、動けなくなって助かられなかったことだといいます。
自分も過去にされたことが大きな傷になっているので恐怖で固まってしまう。
それはあることだと思いました。記憶の中で酷いことが起きると、からだは自分を守るために固まって身動きができなくなる。
助けたい意思があってもできない。
でもきっと、それであっても守れなかったことを謝らないと、目の前で殴られていたお嬢さんにしたら悲しみは薄くはならないでしょう。
お嬢さんの目線はそれを、ただ傍観しているように思えたそうで、それが自分を助けてくれないと思ったようでした。
そして、高校時代学校の外に夜一緒に過ごす友達を持ち、その子たちの方に引っ張られていくという形になっていきます。
その子たちと過ごすのが心地よくなると寝たい時に寝、起きたいとときに起きるとなる。
学校に行かないとならない時間に起きられない。
それは本能のままじゃないと先生はおっしゃっていたけれど、したいことだけするということは、嫌なことからな逃げていいの裏返しになるので、まさにその考え方は堕落の道にしか行かないなと感じました。
自分の子供にもそう言われたらそうしていいというつもりだと言っていました。
彼女をみて、楽園追放前のエバだと思いました。
神様のもとにいたアダムとエバはいいつけを守らなくて知恵の実を食べてしまいます。
それは人間は、辛い中で色々なことを経験して学ばなければならないことを暗示していて、人間には誰しもそんなさだめがあって生きるということをさせられる。
神様のもとから去らなければならなくなった時、本能のままで生きることは、自分を守る武器を持たず過ごす事になるのだと思うのです。知恵の実を食べたということは、武器を得ることが可能になったのです。
本能のまま流されていけばどうなるのか予想がたつ。
それでもいいと思う親に自分はなるというけれど、これから先も同じ考えのままなのか気になりました。
下に流された時、まずいと気がついた時、そこから抗って這い上がろうと思う時、どれほどのパワーが必要だと予測しているのだろうか?
それより楽な道、同じような考えの仲間と過ごして流されていく、一度したその経験に戻らない努力をしようと現時点ではない様に感じました。
これは私の全くの所見でしかありませんが……。
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